2008年07月12日
聖職の碑 新田次郎
私のブログ記事 「校長先生保険はいかがですかー」
で紹介した校長に私の趣味は登山とつたえたところ、すすめられた1冊の本。

聖職の碑
序章から引き込まれた。
作者は長野県の駒ケ岳で自然石で作った碑をみた。
石の中央に「遭難記念碑」と深く刻まれその文字の右側には、大正二年八月二十六日、中箕輪尋常高等小学校赤羽長重君は修学旅行のため児童を引率して登山し、翌二十七日暴風雨に遭って終に死す。
と書かれ「遭難記念碑」の左側には、
共殪者
堀 峯 唐沢 武男
唐沢 圭吾 古屋 時松
小平 芳造 有賀 基広
有賀 邦美 有賀 直治
北川 秀吉 平井 実
大正二年十月一日 上伊那郡教育会
と刻みこまれていた。彼は碑文を読んで概要を知り同時に一種異様な感動に打たれた。
「このような場合、一般的には遭難慰霊碑とするのが当たり前なのに、なぜ、遭難記念碑としたのであろうか」
彼は碑に向かって問うた.
碑文には死者の霊をなぐさめるような言葉はいっさい使われていなかった。校長であり引率者であった赤羽長重については、終に死すと簡単に片付けられ、彼と運命を共にした少年たちは「殪難者」でも「若くして逝った人々」でもなく、「共殪者」であった。
碑は遭難の事実だけを後世に告げるために建てられたもののようであった。
碑の最後に刻みこまれた上伊那郡教育会の七字は碑文や遭難者氏名よりも一段と大きく深く刻みこまれていた。
それはまさしく、碑についてのいっさいの責任は上伊那郡教育会が引き受けようと、居直った恰好にも見えるのである。
「この遭難の陰にはいったいなにがあったのであろうか。記念碑には、遭難事件を悲しむより、遭難そのものを、記念すべきできごととしようという意図が明らかに浮き彫りされている。それはいったいなぜであろうか」
彼は碑に向かって質問しながら下の碑をみた。既に枯れ果ててはいたが、山麓から持って来て捧げたと思われる花束が幾つか置かれていた。
霧が濃くなるとまず碑文が見えなくなり、最後に遭難記念碑の文字も灰色に塗りつぶされ、そこには四角な石の輪郭だけが取り残された。
で紹介した校長に私の趣味は登山とつたえたところ、すすめられた1冊の本。
聖職の碑
序章から引き込まれた。
作者は長野県の駒ケ岳で自然石で作った碑をみた。
石の中央に「遭難記念碑」と深く刻まれその文字の右側には、大正二年八月二十六日、中箕輪尋常高等小学校赤羽長重君は修学旅行のため児童を引率して登山し、翌二十七日暴風雨に遭って終に死す。
と書かれ「遭難記念碑」の左側には、
共殪者
堀 峯 唐沢 武男
唐沢 圭吾 古屋 時松
小平 芳造 有賀 基広
有賀 邦美 有賀 直治
北川 秀吉 平井 実
大正二年十月一日 上伊那郡教育会
と刻みこまれていた。彼は碑文を読んで概要を知り同時に一種異様な感動に打たれた。
「このような場合、一般的には遭難慰霊碑とするのが当たり前なのに、なぜ、遭難記念碑としたのであろうか」
彼は碑に向かって問うた.
碑文には死者の霊をなぐさめるような言葉はいっさい使われていなかった。校長であり引率者であった赤羽長重については、終に死すと簡単に片付けられ、彼と運命を共にした少年たちは「殪難者」でも「若くして逝った人々」でもなく、「共殪者」であった。
碑は遭難の事実だけを後世に告げるために建てられたもののようであった。
碑の最後に刻みこまれた上伊那郡教育会の七字は碑文や遭難者氏名よりも一段と大きく深く刻みこまれていた。
それはまさしく、碑についてのいっさいの責任は上伊那郡教育会が引き受けようと、居直った恰好にも見えるのである。
「この遭難の陰にはいったいなにがあったのであろうか。記念碑には、遭難事件を悲しむより、遭難そのものを、記念すべきできごととしようという意図が明らかに浮き彫りされている。それはいったいなぜであろうか」
彼は碑に向かって質問しながら下の碑をみた。既に枯れ果ててはいたが、山麓から持って来て捧げたと思われる花束が幾つか置かれていた。
霧が濃くなるとまず碑文が見えなくなり、最後に遭難記念碑の文字も灰色に塗りつぶされ、そこには四角な石の輪郭だけが取り残された。


